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能 松風  

能 松風        ―ある姉妹―


 さる諸国行脚(あんぎゃ)の僧が、ある時西国への旅を思い立った。彼はこれまで様々な場所を訪れて見聞を広め、悲喜こもごもの人々の暮らしを目の当たりにしてきたが、まだ西国を訪れたことがなかったからである。旅を急ぐうち、やがて彼は摂津(せっつ)の国(阪神地方)の西端、須磨(すま)の浦にたどり着いた。季節はもう秋になっていた。
 海岸沿いの道を歩いていくと、何やらいわくありげな古い松の木があった。
「何だかいわれのありそうな松の木だな。このあたりの人に聞いてみよう。」
 見回してみると、ちょうど折良く一人の男がやってきた。僧はさっそく声をかけた。
「あなた様はこのあたりの方ですか?」
 男は日焼けした顔を向け、気軽に答えた。
「この辺の人間に、どんなご用ですかな?」
「私は諸国行脚の僧でございます。」
そしてあの松の木を指差した。
「ほら、この浜辺に松が一本ありますが、札を打ちつけ短冊を掛けてあります。何かいわれのあることでしょうか? もし何かご存じでしたら教えて頂けませんでしょうか?」
 すると男はうなずいた。
「ああ、あれは昔、在原行平(ありわらのゆきひら。伊勢物語の作者である在原業平の兄)がここに配属されて来られた時に、松風、村雨という二人の海人(あま)を愛されましたが、その二人の旧跡ですわ。
 行きずりのご縁にぜひ弔ってやって下さい。」
 僧は丁寧に一礼した。
「ご丁寧にお教え頂きありがとうございます。それならばあそこへ行って、行きずりの縁ながら弔って参りましょう。」
「もしまた御用がありましたらお声を掛けて下さい。」
「お願い致します。」
「承知しました。」
 そう言って男は立ち去った。

 旅僧は例の松の木陰に歩いていった。無造作に打ちつけられ、潮風にさらされた札の有り様に、彼は深い憐れみを禁じ得なかった。
「ではこの松は、遠い昔の松風、村雨、二人の海人の旧跡なのか...。
 かわいそうに、その身は土に埋もれてしまったが、名ばかりは今の世に残って、しるしの一本松だけが当時と変わらず同じ色のままで残っている。
 二人は今も変わらず待ち続けているのだろうか? もの皆が様変わりする秋になっても、ただ一つ松だけが、変わらず深い緑の色を留めている。まるで若い二人の、叶えられなかった悲しい恋心を見るようだ。何と哀れなことだろう。」
 僧は松の木の前に座り、経文を読み仏を念じ、丁重に二人を弔ったが、秋の日の習いで程なく日も暮れた。
 どこか近くに人家はないかと、僧はあたりを見回した。
「あの山のふもとの村まではかなり遠いな。どうしようか?」
 彼はもう一度じっとあたりを見渡した。すると、折良くここから程近い所にみすぼらしい小屋が建っているのが目に止まった。
「よし、この海人の塩屋(塩を作る小屋)に泊めさせてもらって一夜を明かすとしよう。」
 僧は砂の上に座り、塩屋の主を待った。

 さて、少し離れた月夜の浜辺では、若い二人の海人が、大きな桶を二つ積んだ汐汲み車を、疲れた姿で引いていた。
 年上の娘がぽつりとつぶやいた。
「こんな汐汲み車を引いてやっと暮らしているなんてさびしいね。」
 波が足元に寄せてきて、この浦に住む二人の袖を冷たく濡らしていた。月は冴え冴えあたりを照らしていたが、その美しい銀の光さえ、かえって悲しみを誘ったものらしく、二人は月を見上げて涙ぐみ、袂の端で目を押さえた。
「あの時、冷え冷えした秋風に、望郷の念や寂しさや、胸一杯の思いをかき立てられて、海は少し遠かったけど、中納言行平様が潮風の詩(うた)を詠まれたわね。」

 旅人は
  袂まで冷え切ったのだ
     関吹き越える
      須磨の浦風に  

――そうお詠みになった通りだわ。波打ち寄せる浦の夜々は、本当にすぐ近くで波の音がする。こんな人里離れた海人の家では、通ってくる人もない。こんな辺鄙な田舎では、あの月以外、友達もいやしない。」
「本当に、仕事なんてみんな辛いものだけど、海人なんて最低だわ。潮風と日差しで肌はぼろぼろ、力仕事でこんなに指が太くなる。」
「ああ、もう耐えられない。まるで悪い夢みたい。こんなの人間の暮らしだなんて言えないわよ。
 こんな汐汲み車、どんなに頑張って引いてもいくらにもなりゃしない。役にも立たない海の泡みたいだわ。全然頼りにならない。いつもずぶぬれ、潮水で袖が乾くひまもない...。
惨めな暮らしが続いた果てに、働けなくなったら死ぬしかない。こんな当てもない身の上だなんて泣けてくる。」
 二人はすっかり肩を落としてしまったが、やがてまた顔を上げ、さびしく笑って月を見た。
「こんなにまで生きにくい世の中に住んでいるのに、あんなにも澄み切って光っていられるなんて、お月様はうらやましいね...。
 さあ、月も出たし潮が満ちてきた。満ちてくる汐を汲もうよ。」
 それきり二人は口を閉ざして、それぞれ物思いに沈んだ。
 月明かりに照らされて、潮溜まりに私の影が映っている。ああ、恥ずかしい。何てみすぼらしい姿だろう。何て惨めな姿だろう。ああ、見たくない...。
 二人は顔を背けるようにした。あたりには誰も居なかったが、二人は人目を忍ぶように、車の音もはばかるように、そっと汐汲み車を引いて行く。
 引き潮の後に残った溜まり水は、いつまでも留まってはいられない。いつまでもこの世に居られる者もない。野原の草の露ならば、日の光に消えてしまうだろうに、この私ときたら、磯辺に寄って海藻を掻き集める海人がうち捨てた、役にも立たない藻屑さながら、ただ空しく朽ちて行くばかり。ただ空しく泣いているだけだから、涙で袖も、いよいよぼろになるばかりだ...。
 するとその時、遠くで人の声がした。二人はじっと耳をそば立てた。
 年上の娘は顔を上げ、しみじみとつぶやいた。
「ここにはずっと住んでいるけれど、すごい景色よね、須磨の夕べって。海人の呼び声がかすかにして。」
「沖には小さな漁船の影がかすかに見える。月はほのかに照らしているし、ほら、雁の群れが渡って行く...。
 千鳥の群や、二百十日の台風の突風や汐風、どれもみんな、本当にこの人里はなれた須磨の秋らしい。ああ、なんてさびしい夜かしら!」
 本当に、思わず首を縮めて身震いするほどの、ぞっとするほどの寂寥感(せきりょうかん)だった。
 けれども年上の娘はきっと唇を結び、
「さあ、汐を汲もう」と、汀(みぎわ)に寄せる満ちては引く潮に向かって、仕事着の袖を結んで肩に掛け、汐汲み車とわかっているが、いや、それだって車は車、女が引く車なんだから、これだって私には、貴婦人の乗る高級車と同じこと...。
 寄せては帰る波さながらに、あの人も訪れては去って行く。潮が満ちれば干潟も消える。私同様、安らうはずの干潟を無くしてしまったのだ、芦辺の鶴も飛び立ち泣き騒げ!
 四方の嵐もゴウゴウと、泣き声に音を添えている。こんなにもさびしく切ないのに、この夜の寒さをどう過ごそうか?
 ああ、けれども更け行く秋の夜空の月は、何と清らかに澄み切っているのだろう。汲んでいるのは水面に映える、この美しい月の影なのだ。だからどうか、塩焼く煙も、この影を曇らさないでいておくれ。いくら貧しい海人であっても、こんなにも憂いばかりに満ちた、悲しい秋を過ごしたくはない...。

 松島の
  雄島の海人の汲む月の
     影にも秘めた
      心こそあれ

――こうしたことは、すべてみな胸に秘められた、様々な想いの故にすることだ。
 二人は冷たい汐を汲みながら、汐汲み歌を口ずさんだ。

「運ぶは遠い陸奥(みちのく)の
  名ばかり近い千賀の塩釜(宮城県塩釜市。昔、源融がこの浜を模して都に庭を作った)」
「賎(いや)しい海人が塩木(しおき。塩を焼くための木)を運ぶのは
  阿漕(あこぎ。伊勢で密漁の網を引き殺された漁師)の浦の引き潮時」
「伊勢の海なら二見が浦
  再び世にも出たいもの」
「松が群れ立ちかすむ日に
  汐路が遠く鳴海潟(なるみがた。愛知県名古屋市緑区)」
「それは鳴海潟、ここは鳴尾(なるお。兵庫県西宮市)の松陰に
  月も漏れ入る芦(あし)の苫屋(とまや)で、」
「灘の汐汲む悲しい身だよと
  告げてくれる者など誰もいない...」
 さし来る汐を汲み分けふと見れば、
「あら、月が桶の水に映ってる。」
「こっちにも月が入っているかしら。」
 年上の娘も車の桶をのぞき込み、思わず顔をほころばせた。
「まあ嬉しい、ここにも月がある。」
 女は空を見上げると、もう一度二つの桶を見た。
「月は一つ、
 影は二つ。」
 仲良く並んだ二つの桶には、月影を映した汐水が一杯に満たされている。二人は顔を見合わせ微笑んだ。
 満ち来る汐が打ち寄せる、夜の車に月を載せているかと思えば、現実には過酷な仕事だけれど、汐水を運んで帰る道中も、辛いとも思わなかったのである。

 やがて二人は、さっきの塩屋にたどりついて中に入っていった。めざとく僧は立ち上がった。
「塩屋の主が帰って来られた。宿を貸して頂こう。」
 塩屋の前までやってくると、僧は中に向かって呼びかけた。
「もし、この塩屋の御主人はおいでになりますか?」
 年下の娘がこれを聞きつけ、戸口までやってきた。
「どちら様ですか?」
「私は諸国行脚の僧でございます。一晩お泊め頂けませんか?」
「しばらくお待ち下さい。主に聞いて参ります。」
 娘は奥の間に向かって声をかけた。
「どうしましょう。旅の方がおいでになりましたが、一晩泊めて頂きたいとおっしゃっておられます。」
 年上の娘が答えた。
「あまりに見苦しい塩屋ですから、お泊め致しかねますと申し上げなさい。」
 娘は僧に言った。
「主に申し伝えましたら、塩屋の中が見苦しゅうございますので、お泊め致しかねますとのことでございます。」
「いやいや、見苦しいなど構いません、出家の身ですから。どうかぜひお泊め下さいませと、もう一度申し上げて下さいませ。」
「いや、お泊め致しかねます。」
 このやりとりを聞いて、塩屋の主が声をかけた。
「お待ちなさい。」
 娘は戸口まで出てくると、隙間から様子をうかがった。
「月明りに見れば確かに出家の方...。まあまあ、こんな海人の家、松の木の柱に竹の垣、夜はひどく冷え込むのにとは思うけど、芦のたき火に当ってお泊まりなさいと申し上げなさい。」
 年下の娘はうなずき、戸を開けて僧に言った。
「こちらへお入り下さい。」
 ほっとして僧は答えた。
「ああ、ありがたい。では喜んで上がらせて頂きましょう。」
 娘はすまなさそうに頭を下げた。
「初めから泊めて差し上げたいとは存じましたが、あまりに見苦しゅうございますのでお断り申し上げました。」
 別に気にするでもなく、僧は気さくに言った。
「お志しありがとうございます。出家といい旅の身といい、どうせ一所に留まっていられる身ではありませんから、宿の選り好みなどしませんよ。
 それに、この須磨の浦では、小粋な人はわざとわび住まいするものです。
 ほら、

 気紛れに
  問う人あらば須磨の浦に
    藻塩にまみれ
     わび住むと言え、と、あの在原行平も詠まれたそうですよ。

 また、あの磯辺に松が一本ありますが、人にたずねましたら、松風、村雨、二人の海人の古跡だと言いますから、通りすがりの縁ながら弔って参りました。」
 すると、どうしたわけか二人の海人は、何とも言えない悲しい顔をして袖で目頭を押さえた。驚いて僧はたずねた。
「おや、変だな。松風、村雨のことを言ったら、二人とも涙ぐんでおられる...。一体どうされましたか?」
 二人は涙を拭いながら答えた。
「本当に、心の内に秘めた思いがあると、顔色にも出てしまうものですね。
 気紛れに、問う人あらば――あのお話しがあまりに懐かしゅうございましたので、いまだ消えないこの世の未練の涙が浮かび、また袖を濡らしてしまいます。」
 僧は怪訝(けげん)な顔をして、まじまじと二人を見つめた。
「この世の未練の涙だなんて、もはやこの世を去った死者の言葉だ。
 それに、『気紛れ』の古歌が懐かしいなどとおっしゃる。
 いずれにせよ、どうもおかしい...。
お二人とも、お名前を聞かせて頂けませんか?」
 そのまなざしには深い憐れみの光がたたえられ、その言葉はあたたかくやさしかった。
 これを聞くと、今の今までずっと耐え続けてきた思いが、一気に関を切って溢れ出したようだった。止めようもなく涙が溢れ、二人は両手で顔を覆ったまま肩を震わせ、後から後から込み上げてくる激しい思いに翻弄されて、言葉さえ出てこなかった。
 むせび泣きながら二人は考えた。
 ああ、口をきこうにも、思えばこの身が恥ずかしい。

 気紛れに
  問う人あらば...

――あの歌を詠んだ方、何の偶然だったのか、私達に優しい言葉をかけて下さったあの方も去ってしまい、今となっては私達の亡き跡を問う人もない。
 それなのに、まだこの世に思いを残しすがりつき、懲りもせず須磨の浦に住み着き未練を捨て切れずにいる、何とあさましく、何と恨めしい我が心だろう...。
 けれどもしばらくして、ようやく二人は顔を上げた。
「この上は、今更何を隠しましょう。私共は先ほど夕暮れに、あの松陰の苔の下、亡き跡をお弔い頂きました、松風、村雨。二人の女の幽霊が、ここまで参りましてございます。」
 それから少し落ち着いて、まだ涙ぐみながらも、二人は代わる代わる話し始めた。
「...さて、あの頃、行平は三年程、退屈紛れの気晴しに、船遊びをなさったり、月を眺めて心を澄ませたりされているうちに、須磨の浦の汐汲み海人の少女の中から、私共姉妹をお選びになり、夜毎に汐を運んで来るようにと申されまして、
『これならここにふさわしい名前だろう?』と松風、村雨と名付けてお召しになりました。
 それ以来、夜の月にも馴れ、須磨の海人の着る粗末な塩焼き衣の代りに、贅沢な絹の衣を着て、焚きしめられた高価な香(こう)の匂いが、ほのかに香るようになりました。」
「こうして三年経った頃、行平は都に上られて、」
「程なく世を去ってしまわれたと聞いてから、」
「ああ、恋しい、こうなってしまった以上、またいつの世にお会い出来ようかと...。」
 ここまで語ると、二人は声を上げて号泣した。涙は溢れて止まらずに、松風も村雨も、どうしようもなく、ただいたずらに袖を濡らすばかりだった。
 僧はただ黙って待っていた。二人の嘆きはいつ終るとも知れなかったが、それでもしばらくすると慟哭もすすり泣きに変り、二人はまた顔を上げた。
「...こんなことではつまらないですわね。叶うはずもないのに分不相応な恋までして、しょせん須磨の海人でしかないのに、浅はかな、何ていい気になっていたんだろう。何て傲慢に、強欲になっていたんだろう。今になってもまだ吹っ切れないでいるなんて、何て罪深いことでしょう...。
 どうか私共の跡を弔って下さいませ。」
 泣いて二人は手を合わせた。それから切々と僧に語った。
 行平が去ってしまってからは、恋の思いはなお生い茂って募るばかり。草に乱れ置く露さながらに思いは乱れ、心はいつか狂気に染まり、思い悩んだその果てに、身体の具合も悪くなり、様々にお払いや祈祷も受けたがその甲斐もなく、ついに波の上の泡と消えてしまった...。それはどこにでもあるような、悲しい女の身の上だった。
 二人は胸一杯の思いを、関を切ったように語り続けた。
 ああ、昔を思えば懐かしい。行平の中納言は、三年はここ須磨の浦に住み、その後再び都に上ることになり、ここで暮した形見として、立烏帽子(たちえぼし)と狩衣(かりぎぬ)を残して行かれたけれど、見るたびに思いはいっそう募るばかり。草の葉先に結ぶ、はかない露ほどの間でさえも、忘れられようはずがない。
 ああ、情けない、つまらない、

 形見など
  今は苦しみこれ無くば
    忘れるひまも
      あり得るものを

――と、そう詠まれているのも当然だわ。なまじこんなものがあるばっかりに、なお思いが深くなるばかり。
 あの頃、宵が訪れる度毎に、あの人はあの狩衣を脱いで寝た。あれを掛ける度毎に、あの人だけを一途に思い、心に願ったものだった。
 たとえ身分が違っても、たとえ日陰の身であっても、どうか同じ世に、あの人と一緒に暮したいと...。
 けれどももうその甲斐もない。この世に生きる甲斐もないなら、忘れ形身も無駄なこと、意味がないとは思ったけれど、捨てるにも捨てられず...。かと言って手に取れば、あの人の面影がまざまざと甦り、寝ても覚めても、枕から足元から、込み上げてくる恋心に責められて、どうしようもなく絶望の涙にむせんで泣き伏すばかり。何て悲しいことだろう...。
 二人はしばらく泣き崩れていたが、やっとまた顔を上げた。姉の松風は奥へ行き、形見の烏帽子、狩衣を出し、愛しむように身に着けて、悲しげに、そして限りなくさびしくつぶやいた。
「この世を去っても涙は絶えなかった。悲しみも憂いもそのまま、いまだに乱れた恋の淵に沈んでる...。」
 その時だった。一陣の夜風がガタガタと戸を鳴らした。松風はその音に、ハッとして立ち上がり、激しい勢いで戸を開き、食い入るように外の闇を見て、狂喜したように叫んだ。
「まあ嬉しい! あそこに行平が立っておられる。松風と呼んでおられるわ。さあ、行かなくちゃ!」
 けれどもそこには人影もなく、ただ月明りに照らされた、ぼんやりした松の影があるばかり。そのまま走り出ようとする姉の袖をつかんで止めながら、妹はすっかり顔を曇らせ、悲しげにたしなめた。
「情けない、そんなことを思っているから、未練とわだかまりの罪に沈むんです。この世での迷いと執着が、まだ忘れられないんですか?
 あれは松です。行平はおいでになってもいませんのに。」
 けれども姉はかえって苛立ち、叱るように言った。
「わからないことを言う人だわね、あの松こそが行平だわ。
 たとえしばらく別れても、『待つと聞いたら帰ってくる』と、そうおっしゃったお言葉を忘れたの?」
 すると妹も手を放し、しみじみとうなずいた。
「本当ね、忘れておりました。たとえしばらく別れても、待っていてくれるなら帰ってこようとのお言葉を。」
 姉はじっと立ち尽くしながら、なお松を見つめてこう言った。
「私は忘れず待っている。
 松風が立ち帰り来るように、またの訪れ、お便りを。」
 妹もまたうなずいた。
「ついにはあの方からのお便りを聞けるなら、
 村雨の涙がしばし袖を濡らそうとも待ちましょう。」
「待っていれば心変わりせず、帰って来て下さるというのなら、」
「ああ、何て頼もしいあの御歌!」
 松風は感極まって立ち上がり、かつて行平が残した歌を懐かしそうに口ずさんだ。

「立ち別れ――」

 懐かしさのあまり、女はあの頃そのままに、静かに舞を舞い出した...。

「...立ち別れ
    因幡の山の峰にある
      松(待つ)と聞いたら
       今帰り来る

――それは遠い因幡の山の松、」
 女はそっと松の木に歩み寄り、まるで愛しい人にするように、やさしく松を抱きしめた。
「これは懐かしいあなたが暮した、ここ須磨の浦の一本松...。一度は去ってしまったけれど、もし待ちわびた末に行平が、再び帰って来てくれるなら、私も木陰に立ち寄って、磯に馴染んだこの松のように、またあの人に寄り添おう。ああ、懐かしい...。」
 松に吹く風も狂おしく、須磨の高波も夜通し激しくざわめいていた。
 女はようやく落ち着いて、再び僧を振り向いた。その瞳にはもはや悲しみの色はなく、女は静かな目をしてこう言った。
「夜もすがらこの妄執のため、夢の中で私はあなたを見、あなたは私を御覧になって下さいました。
 どうか私の跡を弔って下さいませ。これでおいとま申します。」
 二人の女は、祈るように僧に手を合わせ、丁寧に一礼した。別れを告げて帰るかと、思えば波の音がして、須磨の浦一帯に、後ろの山から山下ろしの風が吹く。関のあたりの鳥も鳴き出して、夢は跡形もなく夜も明けて、村雨の音と聞いたのも、今朝見れば松風が残っているばかり。ただ松風が残っているだけだった。

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 汐汲み――都会の人間には風流な海辺の風景でしかなかったが、当時の製塩業は過酷な重労働だった。

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 生と死の狭間に生きる仲介者――死んだ女達の霊と言葉を交わす僧侶。この世の悲喜こもごもを知らずして、悲しい人々の思いを受け止め共感することは不可能である。

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 思い出は記憶の中で変容する。苦しみ悲しみは忘れ去られ、美しく懐かしい記憶は輝くまでに美しく磨きあげられる。全ての苦悩を洗い流す忘却――古代ギリシャ人はそれを、「レイテの泉」と呼んだ。
 人間のあらゆる苦悩や絶望、別離の悲哀、憎悪や怒りを消し去り癒やし得るのは、ただ遠い時の流れだけである。

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 優れた能は仮面によって演じる者の個性を消し去り、普遍的な人生の真実を、観る者全てに訴える。
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